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最近よく落語を聞きに行く。
歌舞伎同様、知った話でも演者が違えば様子も変わって面白く、特に若手で頭角を現しはじめた人を愛でるのも楽しい年代なってきた。
歌舞伎用語なんだろうか「仁」という言葉がある。持ち味みたいなものを指す時に使う。
たとえば大柄で体格のいい役者が、小姓を演じてもただの用心棒にしか見えない。
人にはその人に合うお役というものがある、その持ち味を存分に活かすべし、ということを教えてくれた言葉だ。
落語家にもやはり「仁」があって、最近お気に入りの落語家さんは、「いまはやんちゃ坊主な役があう年頃だけど、このままいい男になったら、女口説きながらもちょっと頼りない旦那が出てくるような話をやってほしいな」と思わせてくれる。先日もご自身の「仁」をよく弁えているいい落語を拝見できて存分に楽しんだ。
 
ところで昨日の夜のことだ。
大好きな脚本家を密着取材した番組を見た。彼が描いた作品では、自分の心の奥をぎゅっと掴まれるセリフがとてつもなく多く、時に泣き、時に圧倒され、時に癒され続けた。
今年3月テレビドラマから卒業すると宣言された時にはびっくりしたが、どうやらその後、今まで携わってこなかった(というのが意外だったが)舞台脚本に進出したとのこと。
その悪戦苦闘ぶりをおったドキュメンタリーだった。
彼は言う。
「描いてない場面はもうないんじゃないか、と底ついた感じがしてそれが怖い」
そこまで行った人間にしか見えない景色がそこにあるのだろう。とてつもない高みにのぼったんだろうな、ともはや呆然と彼の横顔を眺めていた時だった。
「集大成なんて言われちゃいけないんですよ。新たな水が湧き上がらないから、過去汲んだ水でどうにかしたのが集大成ですから。終わってるってことだと僕は思います」
ふと、風姿花伝がよぎった。この人は、時分の花を知っているからこそ、この言葉選びができるのだろうな、と。
咲き誇って人から褒められている時でも、目の前の人に、その生き方に、そして言葉に真摯に向かい合ってきたからこそ、いつかは枯渇し枯れゆくことに少しずつ恐怖を覚えながらも、前へ進めるんだろう。
素晴らしい一瞬を見せてもらった、とつくづく感服した。
人は生き方を誰にも教わらないが、一方で誰からも何ものからも教わることができる。学ぶ姿勢がなければ教わるということは成立しない。
冒頭の落語家さんも、おちゃらけ風情だが、読書家だし、勉強家だし、とにかく学び、そしてすぐさま実践する人にお見受けする。
そんな二人を見て、学びつづけなければ、と思わされたこの数日、いい刺激になった。
さて、私も身近な師匠からいただいた宿題をなんとか終わらせて、前へ進まなければ。